29 Sue スー 史上最大のティラノサウルス発掘
ピーター・ラーソン&クリスティン・ドナン著 冨田幸光監訳 池田比佐子訳
朝日新聞社 ISBN4-02-250010-7 本体3,400円
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2005年3月、国立科学博物館を皮切りに、ティラノサウルス"Sue(以下「スー」と表記) "複製骨格を
展示の目玉とした「恐竜博2005」が開催されている。本書はそれにあわせ出版された。
「10億円でティラノサウルス化石が落札」このニュースを覚えている方も少なくないだろう。スーは
サザビーのオークションで落札されたその化石。現在、シカゴのフィールド博物館に展示されてい
る。しかし、展示に至った経緯を詳しく紹介した本はこれまでなかった。いくら標本数が少ないとは
いえ、なぜ、恐竜化石に当時の換算で約10億円もの値段がついたのだろうか。
著者は、スーを発掘したブラックヒルズ地質学研究所(以下「BHI」と略)の代表者ピーター・ラーソン
(以下「ピーター」と表記) とジャーナリストであり、一時期ピーターの妻であったクリスティン・ドナン。
本書では、スーの発見、発掘から古生物学的考察、膨大な訴訟、オークション、展示にいたるその
歩みが、その当事者により余すところなく語られている。かつて、学研から発行されていた「恐竜学
最前線」誌では、スーの発掘とFBIによる押収リポートにふんだんにページを割いていた。しかし、そ
の後の情報は途絶えた。日本の私たちにはオークション落札までスーは姿を消していたといってい
いだろう。
最初の100ページあまりは、スーの発掘とそれにまつわる新発見および考察がわかりやすく続く。
読者は一緒に発掘しているような感覚で読み進むことができるだろう。私自身スーの発掘現場に
行ったことがあり、発掘地、ニーミ牧場には「T-REX出没注意!」の看板があったことを思い出す。
乾燥したサウスダコタの大地、比較的交通もインフラも整備されたアメリカとはいえ、発掘作業は大
変である。道路から発掘地の方を見ると、ほぼ東京−箱根間に匹敵するほどの間、はるか向こうの
山まで人家も何もない。資材を人力で運び、炎熱の大地に身をさらす。満足のいく化石を発見する
確率はそれほど高くない。スーの発見も1990年の発掘シーズン終わり近い頃だった。スーザン・
ヘンドリクソンによる発見。すばらしい化石!短期間で崖を崩して発掘。BHIでクリーニング作業かた
わら古生物学的な新考察が披露される。
血道弓の大きさからT-REXの性を区別する、鳥類との関係、後に幼体化石バッキーから発見され
た叉骨から肩帯の正しい位置がわかったこと、成長の早さ、頭蓋の運動性など、さりげなく語られる
はしばしに、発掘者ならではの視点が感じられる。もし、スーの物語がこのようなことばかりだったら、
この世にこんな幸福な物語はないだろう。
しかし、FBIによるスー押収から様相は一変する。これまでBHIによる恐竜化石の発掘については
お互いの信頼関係で、ほとんど口頭の了解に近い形で行われていた。しかし、スーが非常に価値の
ある化石だという噂が流れるにつれ、発掘地の地主、モーリス・ウィリアムズは悔やんだに違いない。
BHIが支払った5000ドルは、単に化石の発掘許可を与えたものにすぎないと主張するようになった
のだ。しかも検察局が眼をつけるところとなり、ある日突然州兵まで動員してFBIが押収してしまう。
押収以後は悪夢の連続である。本書の各章冒頭には、「不思議の国のアリス」の文章が引用されて
いる。アリスはウサギを追ってワンダーランドに落ちていった。が、ピーター達は限りなく訴訟が続く悪
夢のワンダーランドに落ちていったのだ。
当初はスーの「違法発掘」が焦点だったはずなのに、それでは公判が維持できないと思ったのか、副
検事マンデルらは次々と訴因を追加していく。ついに、スーは起訴状のどこにも見当たらず、ウミユリ
化石の保有やペルーのクジラ化石発掘が重罪として訴因になってしまう。
アメリカの法体系にも訴訟制度にも不慣れな私たちにとって、これはなんとも理解しがたいことだ。
ピーター達以上に悪夢のワンダーランドに翻弄されてしまう。それでも何とか整理してみた。
訴訟は大きく民事と刑事に分かれる。
民事では、「T-REX化石は不動産」という驚くべき判決がだされた。スーは不動産である以上、先住民
(インデアン)であるモーリス・ウィリアムズから土地を信託された合衆国内務省の許可を得ない売買は
無効であり、スーは不動産所有者であるモーリス・ウィリアムズのものというのだ。そして彼の委託を受
けたサザビーのオークションが開催される。
一方、刑事では国家権力が是が非でもラーソンらを破滅させようと決意したのかと思われるほど数多く
の罪状で起訴されている。ピーター個人に対して36件、弟の二ール、共同経営者のボブ・ファーラー、
BHI自体に対するものなど全ての訴訟項目をあわせると159件にもなる。計353年の拘禁計の予測が
された。
訴訟では弁護士パット・ダフィが獅子奮迅の活躍をする。一方BHIはこの間も貴重な標本を発掘、剖出
している。国立科学博物館にも複製が展示されているスタン、弁護士の名にちなんだダフィ、幼体バッ
キー、メスとされるフォクシー・レディなどである。1995年には東京池袋で大恐竜博の開催に尽力した。
訴訟を抱えながらこれだけの成果をあげるとは、大したものだ。
結局、ピーター・ラーソンは報告義務不履行の重罪2件と軽罪2件で有罪となった。量刑はその範囲で
もっとも重いと思われるものになっている。24か月の拘禁刑と罰金5000ドルである。日本なら執行猶予
がついて当然なのだが、アメリカはそうでないようで、ピーターは結局刑務所に収監される。私が発掘
現場を訪れたのは、ちょうどその時期だった。ニールらは見かけ上元気だったが、ラーソン家の人々も
BHIという組織も大変な時期だったのだ。
18か月がすぎ、ピーターは釈放された。自宅拘禁2か月さらに保護観察2年。そしてスーの競売、2000
年5月フィールド博物館で展示オープン。スーはその発見から展示まで何層にも重なり解きほぐしがた
い膨大な物語を携え、何人もの人生を変えてきた。
この本はスーの物語であるとともに、ピーターの物語でもある。数々の訴訟ではピーターもBHIも破滅の
瀬戸際まで追いやられた。しかし、彼もBHIも生き残り、以前にも増す活動を続けている。彼の人生は変
容を余儀なくされたが彼らのK-T絶滅境界を生きのびたのだ。
訴訟に関する部分は、その制度について知識がないため、理解が進まない。これは多くの読者にとって
も同じだろう。が、発掘現場のシーンは自分も現場にいるようにさえ感じられる。発掘からわかったT-REX
に関する新知識の論考、ところどころに挿入されたREX FILEなど魅力に満ちている。
民間業者の化石発掘に関する彼の意見については、議論の余地が残る。が、少なくとも一方の当事者
がスーにまつわるこれだけの物語をまとめ、それを流麗な日本語で読めることは稀有な幸せといってよ
いだろう。池田比佐子氏の翻訳は、翻訳文であることを忘れるほど読みやすい。専門用語も非常に正確
に訳している。
これから恐竜博2005を見に行く方、もう行ってきた方どちらにとっても、この本はスーを、いろいろな意味
で内奥まで見せてくれるだろう。